葛飾北斎は私たち漫画家の大先輩です。北斎漫画の絵からは多くを学ぶことができます。

北斎漫画について
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漫画の祖は、鳥羽僧正の鳥獣戯画であるとされています。
しかし、大衆にアピールした最初のプロの漫画家は、おそらく葛飾北斎でしょう。そして、北斎は世界で最も有名な「日本の漫画家」なのです。
ただし、「北斎漫画」というのはスケッチ画集であって、漫(そぞろ)画、つまりたいした理由もなく気の向くままに描いた絵という意味で、北斎が名付けたものです。
したがって、北斎漫画は私たちが描く今日の漫画とはかなり異なります。
しかし、大衆にアピールするという意味においては、やはり現在の漫画と共通していると考えます。とくに、人物の表情や動きは、現在の私たちの漫画となんら変わりないと思います。
それでは、私たち漫画家の大先輩葛飾北斎についてご紹介いたします。
北斎といえば
北斎といえば、なんといっても「富獄三十六景」でしょう。
当初は、タイトル通り36の図版が出版されました。
ところが、この「富獄三十六景」が非常に人気があったので、その後10図を追加で刷ることにしたようです。
つまり、「富獄三十六景」は、最終的に46図出版されたことになります。
ちなみに、当初の36図を「表富士」、追加の10図を「裏富士」と呼んでいます。
すべての図に富士山が描かれています。

では、なぜ富士山が描かれていたかといいますと、もちろん富士山の美しさを人々が好んだから版元が北斎に描かせたということはあります。
実は、それ以外にも理由がありました。
それは、富士山が信仰の対象だったからなのです。
当時は、富士山を集団で参拝する「冨士講」が盛んでした。
そして、富士山に見立てた築山「富士塚」が、江戸の各地で作られていたのです。
私の住む練馬区大泉の八坂神社にも富士塚があります。また、以前住んでいた、江古田駅の近くの浅間神社にも富士塚がありました。
こうした当時の社会的風潮の中で、北斎の「富獄三十六景」が誕生したのです。
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北斎とは
葛飾北斎が生まれたのは、宝暦10年(1760年)9月23日ではないかといわれています。
武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区)に、貧しい百姓の子として生まれました。
姓は川村、幼名は時太郎といいました。つまり、生まれたときの名前は「川村時太郎」という名前だったのです。
のち、鉄蔵と名乗り、通称は中島八右衛門といいました。

そして明和元年(1764年)、幕府御用達鏡磨師・中島伊勢の養子となりましたが、伊勢の実子に家督を譲り、北斎は家を出て行ったのです。
その後、貸本屋の丁稚となりました。
さらに、木版彫刻師の弟子となり、やがて実家へと戻って行きました。
この頃から、貸本の絵を描くことに興味を持つようになったようです。
おそらく、この時期に、絵の道を志すようになったのではないでしょうか。

安永7年(1778年)、北斎は浮世絵師・勝川春章の門下となりました。
そして、狩野派や唐絵、さらには西洋画などを学び、名所絵(浮世絵風景画)や役者絵をたくさん描くようになります。
この頃の雅号は「春朗」といいました。
これは、師である勝川春章と、その別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつとって付けた雅号でした。

ところが、安永8年(1779年)、北斎は勝川派を破門されました。
理由は定かではありませんが、どうやら最古参の兄弟子と仲が悪かったのが原因だったようです。この最古参の兄弟子は勝川春好でした。
また、師匠の勝川春章に隠れて、狩野融川に出入りして狩野派の画法を学んだためともいわれています。

寛政7年(1795年)には「北斎宗理」の号を名乗っています。
ところが、寛政10年(1795年)には、「宗理」の雅号を門人である琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」という雅号や「可侯」「辰政」の雅号を使っていました。
そして、文化2年(1805年)、ついに「葛飾北斎」の雅号を使うようになったのです。
文化7年(1810年)には、「戴斗」の号を用いています。

文化11年(1814年)、ついに「北斎漫画」の初編が発刊されました。

文政3年(1820年)、「画狂老人」「卍」の号を使い、「富獄百景」を手がけます。
嘉永2年(1849年)4月18日、江戸浅草聖天町にある遍照院境内の仮宅で亡くなりました。享年90歳でした。
次のような辞世の句を残しています。
「人魂で 行く気散じや 夏野原」
北斎の墓所は、台東区元浅草の誓教寺にあります。
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北斎漫画について
葛飾北斎が絵手本として発行したスケッチ画集が「北斎漫画」です。
絵手本というのは、画学生のための絵の教本です。
全15編で構成され、4000図が収められています。
北斎54歳、雅号は「戴斗」の頃でした。
絵手本として発刊された「北斎漫画」は、やがて評判となり、職人の意匠手引き書などにも用いられるようになりました。
さまざまな職人から道具師やふざけた表情、あるいは妖怪、さらには遠近法など、多岐にわたる図が収められています。
北斎は、この絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」と呼んでいました。
やがて、この北斎漫画は海外でも評価されていました。
1830年代ヨーロッパに、磁気や陶器の輸出の際に、緩衝剤として浮世絵と共に
渡ったのでした。
そして、それを見たフランスの印象派の画家クロード・モネやゴッホ、ゴーギャンたちに影響を与えたのです。
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映画「北斎漫画」のあらすじ
監督/新藤兼人
鉄蔵(葛飾北斎)/緒形拳
左七(曲亭馬琴)/西田敏行
お栄(鉄蔵の娘)/田中裕子
お直/樋口可南子
お百(左七の女房)/乙羽信子
中島伊勢/フランキー堺

鉄蔵と鉄蔵の娘お栄は、左七の家の居候になっていました。
鉄蔵は、貧しい百姓の生まれでしたが、幼い頃に、御用鏡磨師・中島伊勢の養子となっていました。
幼い頃から絵が上手だったので、絵師の弟子となったのですが、一箇所に落ち着かず、幾人もの師から破門されました。
一方、左七は侍の生まれでしたが、読本作家になることを志し、下駄屋の養子に入り込んでいました。
左七の女房お百は、亭主が黄表紙本などを読むのを心よく思っていません。
さらに、朝から晩まで絵を描いている、居候の鉄蔵とお百の父娘にも我慢なりませんでした。
そんなある日、鉄蔵はお直という女に出会ったのです。
鉄蔵は一目でお直にのめり込んでいきました。そして、彼女を描くことで、つき当っている壁を破ろうとします。
ところが、お直の不思議な魔性に手応えがありません。
鉄蔵は、お直を養父の伊勢に紹介することで、彼女と別れ、また金もせびることにしました。
しかし、その伊勢も、お直の魔性にとり憑かれ、首をくくって死んでしまいます。
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「北斎」という雅号
「北斎」という雅号は、どうやら日蓮宗の妙見(北斗七星)信仰からきているようです。
北斎は、日蓮宗を信仰していたのでしょうか。
妙見、つまり北斗七星は「北辰」と呼ばれています。
坂本龍馬が免許皆伝の「北辰一刀流」という剣の流派がありますが、その北辰も同じように北斗七星のことでしょう。
ちなみに、北斎は、当初「北斎辰政」と名乗っていたようです。
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雅号がなんと20以上
「北斎」という名で知られる葛飾北斎ですが、雅号はなんと20以上あるといわれています。
したがって、北斎という人物の足跡は、人間北斎の長い人生を考えればほんの一部に過ぎないことになります。
たとえば、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」など、まだまだたくさんの名前があります。
北斎が面白いのは、使わなくなった雅号を弟子に譲ったりしている点です。ということは、たとえば「北斎」と記された絵が、実は「弟子の北斎」が描いたものかもしれないわけです。
「北斎」という雅号は、実は5年くらいしか使っていないようですね。
私から見たら実に面白いというか、名前などに執着しないで絵に没頭していたであろう葛飾北斎の姿が見えるような気がします。
つまり、名前は必要があるから使うわけで、飽きてくることだってあるわけです。まぁ、付き合っている彼女に飽きてくると、傍を通る粋な女性に目移りすることだってありますよ。
ただし、未だに北斎の真筆かどうかがわからない作品が多いのは困りものですよね。
それなら、「とんぼスタジオ」のように、「北斎スタジオ」の制作作品てことでどうでしょうか。
焼き物だって同じようなものですからね。
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北斎は引越魔だった
様々な理由があったようですが、北斎は生涯で92回もの引越をしています。
90歳で亡くなっていますから、単純計算でも1年に1度は引っ越していたことになります。
とくに、晩年近くになってから引越の回数が増えたようです。
雅号を頻繁に変えることもそうですが、どうやら北斎はひとつ処に留まることが嫌いだったのではないでしょうか。
流れる水の如く、常に新鮮な何かを求めながら絵に没頭していたのであろうと思います。
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葛飾北斎と滝沢馬琴
滝沢馬琴は「南総里見八犬伝」の著者として有名です。北斎は、その滝沢馬琴の家に居候していたことがあります。
では、同居していたのだから仲が良かったのかというと、決してそうではなかったようです。
しょっちゅう喧嘩していたようです。
滝沢馬琴は、自著の「三七全伝南柯夢」で述べています。
「三七全伝南柯夢」は、実際の心中事件を脚色した浄瑠璃「女舞剣紅風」「艶姿女舞衣」
などの「三勝半七」ものを忠孝・貞の物語に仕立てたものです。
その書物の中で、馬琴が書いた話に関係なく北斎が狐の絵を描くので、これじゃあ狐に化かされてるみたいだと怒ったという話が載っています。
また、馬琴が草履を口にくわえた姿を描いてくれと言うと、そんなに汚ねえ絵が描けるか、だったらてめえでくわえてみやがれ、と北斎が怒った話しなどが載っています。
そんな2人ですが、相手のいないところではお互いの才能を褒め合っていたようです。
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北斎の子孫
北斎は2度結婚しています。
まず、先妻との間にできた長女お美与は、弟子の柳川重信と結婚し、一男をもうけたのですが、後に離婚しています。
長男は富之助といい、北斎の代わりに、北斎が養子となった先の中島伊勢の家督を継ぎました。
ところが、早くに亡くなっているようです。
次女のお辰は、北斎の血を引いて画才があったようですが、早くに嫁ぎ病死しています。

また、再婚相手との間にできた3女のお栄は、結婚して離婚しているようです。
このお栄は、北斎が亡くなるまで、北斎と一緒に絵を描いていた人です。
次男の崎十郎は、武士の養子となり御家人になりました。
4女のお猶は、生まれつき盲目だったようです。尼寺に引き取られ、体調を崩してからは母親と一緒に暮らしていたようです。

北斎の画才は、どうやら娘にだけ引き継がれていたようです。
3女のお栄は絵師と結婚したのだが、実は夫より絵が上手かったといわれています。それが原因で離婚したのではとも
いわれています。
また、お栄は「北斎」の雅号を継いで、父北斎の代筆まで手掛けていたようです。
お栄は、北斎が亡くなって6年後に、長野で頼まれた絵があると言い残して、その後の消息を絶っています。
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