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漫画制作で使われる業界用語を知っておくと何かと便利です。


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漫画制作の用語「か行」
漫画を制作し印刷するまで、業界で使われる専門用語の知識は必須です。打ち合わせの段階から完成まで、専門用語は頻繁に使われます。そうした用語を詳しく解説いたします。
ぜひお役立て下さい。
小松崎茂
項目
1.小松崎茂とは
2.挿絵画家としてデビュー
3.戦後
4.子供向けの絵物語がブームに
5.漫画人気に押された絵物語の凋落
6.プラモデルのパッケージ
7.漫画家への影響
●小松崎茂とは
私が子供の頃、雑誌の表紙やプラモデルの箱にリアルで空想的な絵が描かれていました。実にリアルで、空想的だが実在する世界であるかのように夢中になったものです。その絵を描いていたのが「小松崎茂」でした。

小松崎茂は1915(大正4)年2月14日、東京の南千住に生まれました。当初は日本画家を目指して堀田秀叢に学びました。

しかし、堀田秀叢の弟弟子の小林秀恒の下で、挿絵画家の道を歩むことになったのです。

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●挿絵画家としてデビュー
1938(昭和13)年、小樽新聞の連載小説に挿絵を描き、挿絵画家としてデビューしました。ペンネームが「恒方」でしたから、師匠の小林秀恒に肖ったものと思われます。

1940年には少年向けの科学雑誌に戦争シーンや空想科学の挿絵を描き、評判となりました。彼の描く挿絵はとても臨場感があってリアルでした。

やがて日本は太平洋戦争へと突入しました。この頃の小松崎の挿絵は注目され、少年向け雑誌の戦記小説に、兵器などの戦争関連の挿絵を数多く発表しました。

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●戦後
1945(昭和20)年には、東京大空襲によって南千住の実家は全勝してしまいました。その火災で、小松崎のたくさんの資料やスケッチ、作品などを焼失してしまったのです。戦災で、大勢の子供たちも犠牲となりました。

戦後になると、小松崎は子供たちのために精力的に作品作りに励むようになりました。少年向け雑誌の表紙や挿絵に空想科学イラストを数多く描いたのです。彼のリアルで臨場感のある絵は、子供たちを夢中にさせました。

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●子供向けの絵物語がブームに
間もなく子供向け雑誌の絵物語がブームとなりました。少年画報社の月刊誌「冒険活劇文庫」という雑誌の「地球SOS」という物語に挿絵を発表しました。この「冒険活劇文庫」は、後に「月刊少年画報」という少年漫画雑誌になりました。

小松崎の挿絵は大人気となりました。同じように大人気だった山川惣治と人気を二分するほどでした。

当時の子供たちには娯楽が少なく、臨場感のある小松崎の絵は子供たちにものすごいインパクトを与えました。人気作家となった小松崎は、多くの雑誌の挿絵を担当するようになりました。多忙の日々を過ごしていたのです。

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●漫画人気に押された絵物語の凋落
絵物語の人気は長くは続きませんでした。1950年代になると、漫画雑誌が子供たちの支持を集めるようになり、次第に絵物語の需要が減っていったのです。

しかし、漫画雑誌には戦記物がたくさん掲載されていました。小松崎茂は自身のリアルなタッチを活かして、漫画の表紙や関連する媒体に多くの力作を発表するようになりました。

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●プラモデルのパッケージ
やがてプラモデルが子供たちのオモチャの主流となり、小松崎はプラモデルのパッケージのイラストを精力的に描きました。

優れた完成度で小松崎のイラストは大人気となり、その後たくさんのパッケージにイラストを描くようになりました。その多くは、戦艦や飛行機などの兵器でした。

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●漫画家への影響
小松崎茂の空想科学のイラストは、後の漫画家となる卵たちに夢を与えました。後の漫画家たちは、彼のイラストから空想を膨らませ、自分の漫画に反映させていったのです。それを意図しない漫画家であっても、彼から受けた影響は計り知れません。

未来を夢想する子供たちは、小松崎茂の影響を受けながら大人になっていったのです。かく言う私も、そのひとりです。

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参考ページ→
漫画制作講座
資料
鳥羽僧正
十返舎一九
少年倶楽部
樺島勝一
岡本一平
北沢楽天
山川惣治
のらくろ
冒険王
少年ケニヤ
月光仮面
黄金バット
紙芝居
七色仮面
ジャパン・パンチ
アラーの使者
ぼくら
小松崎茂
東洲斎写楽

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