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| 漫画を制作し印刷するまで、業界で使われる専門用語の知識は必須です。打ち合わせの段階から完成まで、専門用語は頻繁に使われます。そうした用語を詳しく解説いたします。 ぜひお役立て下さい。 |
| 恋川春町 |
| 項目 |
| 1.恋川春町とは 2.鳥山石燕に絵を学ぶ 3.恋川春町の仕事 |
| ●恋川春町とは 恋川春町は江戸時代中期に活躍した戯作者であり浮世絵師でした。黄表紙の祖と呼ばれています。 1744(延享元)年、紀伊田辺藩士桑島九蔵の次男として誕生しました。本名は倉橋寿平といいます。「恋川春町」の筆名は、江戸藩邸のあった小石川春日町と、人気絵師勝川春章に肖ったようです。 1763(宝暦13)年、恋川春町は小島藩士となり中小姓格右筆見習書役兼帯となりました。そして、その年に小島藩士の父方伯父の倉橋勝正の養子となりました。 1771(明和8)年に藩主松平昌信が死去して松平信義が藩主になると、恋川春町は出世して取次兼留守居添役となったのです。この年に養父が隠居すると、恋川は家督を相続して内用人に就任しました。1781(天明元)年には藩政の中枢に参与するようになりました。真面目な仕事ぶりが評価されていました。 項目に戻る ●鳥山石燕に絵を学ぶ そうした真面目な武士の側面を持ちながら、恋川は絵師鳥山石燕に絵を学んでいました。鳥山石燕は狩野派から独立して妖怪などの絵を描いていました。その石燕は狂歌や儒学者との交友があり、恋川も影響を受けたと思われます。恋川は狂歌に夢中だったようです。 1787(天明8)年、松平定信の文武奨励策を風刺した黄表紙「鸚鵡返文武二道」を刊行しました。しかし、幕府の命により出版差し止めとなってしまいました。同様に、朋誠堂喜三二の「文武二道万石通」や唐来参和の「天下一面鏡梅鉢」なども絶版となりました。 黄表紙「鸚鵡返文武二道」の刊行により、恋川は松平定信から呼び出しを受けてしましました。ところが、恋川は出頭しませんでした。病のため、というのが理由でした。 この件については諸説があり、「鸚鵡返文武二道」は問題視されたが呼び出しはなかったとも言われています。 しかし、病気を理由に隠居した恋川は、実際に病死したとされています。 項目に戻る ●恋川春町の仕事 恋川は黄表紙を多数刊行し、洒落本や滑稽本などの挿絵も描いていました。 1773(安永2)年に洒落本「当世風俗通」の挿画を描きました。これが絵師としての初仕事でした。この洒落本に文書を添えたのが朋誠堂喜三二でした。その2年後、恋川が文章を書き絵も描いた「金々先生栄花夢」が鱗形屋という版元から刊行されました。 この「金々先生栄花夢」は、それまで子供向けだった草双紙のスタイルに、大人の笑いを網羅したことから評判となりました。やがてこのスタイルは「黄表紙」と呼ばれるようになりました。恋川春町が「黄表紙の祖」と呼ばれる由縁です。 翌年、恋川作画の黄表紙「高漫斉行脚日記」を刊行されました。その後も次々と黄表紙を発表していきました。1779(安永8)年には「妖怪仕内評判記」というユニークな黄表紙を刊行していますが、妖怪物の絵を得意とした師匠鳥山石燕の影響があったと思われます。 1783(天明3)年からは耕書堂の蔦屋重三郎とも交流し、「猿蟹遠昔噺」などを刊行しました。以後、亡くなるまで、恋川春町は精力的に、蔦重のもとで黄表紙や狂歌本を出版しました。 項目に戻る |
| 参考ページ→ 鳥羽僧正 浮世絵 河鍋暁斎 十返舎一九 安藤広重 狩野派 歌川国芳 山東京伝 菱川師宣 黄表紙 蔦屋重三郎 琳派 平賀源内 曲亭馬琴 朋誠堂喜三二 恋川春町 東洲斎写楽 英一蝶 |
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