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漫画制作で使われる業界用語を知っておくと何かと便利です。

漫画制作で使われる用語の説明


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漫画制作の用語「あ行」
漫画を制作し印刷するまで、業界で使われる専門用語の知識は必須です。打ち合わせの段階から完成まで、専門用語は頻繁に使われます。そうした用語を詳しく解説いたします。
ぜひお役立て下さい。
狩野派
項目
1.狩野派とは
2.始祖狩野正信
3.血族の画家集団
4.幕府の御用絵師
5.狩野探幽以降
6.現代の漫画制作プロダクションに影響
●狩野派とは
室町時代以降、日本画壇の中心には専門の画家集団が存在していました。それが「狩野派」です。室町時代中期から約400年にわたって、「狩野派」は常に画壇の中心で活動していました。

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●始祖狩野正信
室町幕府の御用絵師となった狩野正信が「狩野派」という画家集団を興しました。そして、正信の子孫は室町幕府が滅亡した後も、織田信長や豊臣秀吉、徳川将軍家などに仕えました。

狩野派は時の権力者に仕えることで、内裏や城郭、寺院などのあらゆる画面に配置される絵の制作を担当していました。彼らは職業画家集団として日本の美術史に多大な足跡を残しています。

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●血族の画家集団
狩野派は、親や兄弟といった血族が後継する画家集団だったのです。初代狩野正信が室町幕府8代将軍足利義政に仕えると、嫡男の元信と元信の孫狩野永徳が安土城や大坂城の障壁画を制作しました。

そして、永徳の孫の狩野探幽は京都から江戸に本拠を移して、江戸城や二条城などの障壁画制作を指揮しました。また、京都では狩野山楽が「京狩野」という一派を興しました。

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●幕府の御用絵師
江戸時代の狩野派は幕府の御用絵師として活躍しました。とくに内裏や城郭などの障壁画の制作を行いました。幕府からの制作依頼で大量の作画を求められ、それに応えるために狩野派一門の絵師たちが集団で担当したのです。現在の制作プロダクションと同じ仕組みだったと思われます。

ただし、同じ絵柄を求められたことで、一門の絵師たちは個人の画風を捨て、狩野派としての伝来の技術と描法で絵を制作していきました。

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●狩野探幽以降
しかし、絵師が個性を失い同じ絵を追求するようになると、独創性や芸術的な魅力を失ってしまいます。狩野探幽以降には、そうした傾向が見られます。当時、絵画にどれほどの芸術的価値が求められたかはわかりませんが、制作を依頼する側からすれば、安心して任せられたのだろうと思います。

大量注文を受注して一定レベルで制作するには、狩野派のような集団がベストだったのでしょう。葛飾北斎の工房も同じようなシステムで制作していましたし、琳派なども同様でした。

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●現代の漫画制作プロダクションに影響
現代の漫画家の制作プロダクションは、まさに狩野派や葛飾北斎の工房と同じ方法で漫画を制作しています。たとえば、代表の漫画家が下描きだけを行います。そして、主人公の人物をアシスタントペン入れをして、他のアシスタントたちが背景画を描いて仕上げていきます。

このシステムがあれば、週刊誌の連載を複数受けても漫画を描くことが可能です。アシスタントの中には、漫画家先生とほとんど同じ絵を描くことができる人がいるのです。

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参考ページ→
浮世絵
十返舎一九
河鍋暁斎
岡本一平
安藤広重
北沢楽天
江の島鎌倉長短旅行
鳥羽僧正
葛飾北斎
狩野派
歌川国芳
蔦屋重三郎
黄表紙
琳派


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