HOME>北斎漫画について | |
漫画の祖は鳥羽僧正の鳥獣戯画だとされています。しかし、大衆にアピールした最初の漫画家は、おそらく葛飾北斎であろうと思われます。 |
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北斎といえば | |
北斎といえば、なんといっても「富獄三十六景」でしょう。 当初はタイトル通り36の図版が出版されました。そして、この「富獄三十六景」が非常に人気があったので、その後に10図を追加で刷ることにしたようです。つまり、「富獄三十六景」は最終的に46図出版されたが、「富獄四十六景」とはせず「富獄三十六景」のままだったのでしょう。 ちなみに、当初の36図を「表富士」、追加の10図を「裏富士」と呼び、 すべての図に富士山が描かれています。 では、なぜ富士山が描かれていたのでしょうか。もちろん富士山の美しさを人々が好んでいたから版元が北斎に依頼して描かせたのではあるが、実はそれ以外にも理由があったようです。おそらく富士山が信仰の対象だったからでしょう。当時は、富士山を集団で参拝する「冨士講」が盛んで、富士山に見立てた築山「富士塚」が江戸の各地で作られていました。 私の住む練馬区大泉の八坂神社にも富士塚があります。また、以前住んでいた江古田駅北口近くの浅間神社にも富士塚がありました。 こうした当時の社会的風潮の中で、北斎の「富獄三十六景」が誕生したのです。 |
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北斎とは | |
葛飾北斎が生まれたのは、宝暦10年(1760年)9月23日ではないかといわれています。武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区)に、貧しい百姓の子として生まれました。姓は川村、幼名は時太郎といったようです。つまり、生まれたときの名前は「川村時太郎」という名前だったのでしょう。後に鉄蔵と名乗り、通称は中島八右衛門といいました。 そして明和元年(1764年)、幕府御用達鏡磨師・中島伊勢の養子となったが、伊勢の実子に家督を譲り、北斎は家を出て行きました。その後、貸本屋の丁稚となりました。さらに、木版彫刻師の弟子となり、やがて実家へ戻りました。この頃から、貸本の絵を描くことに興味を持つようになったようです。おそらく、この時期に絵の道を志すようになったのではないでしょうか。 安永7年(1778年)、北斎は浮世絵師・勝川春章の門下となりました。そして、狩野派や唐絵、さらには西洋画などを学び、名所絵(浮世絵風景画)や役者絵をたくさん描くようになりました。この頃の雅号は「春朗」といいました。これは、師である勝川春章と、その別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつとって付けた雅号だったようです。 ところが、安永8年(1779年)、北斎は勝川派を破門されました。理由は定かではありませんが、どうやら最古参の兄弟子と仲が悪かったのが原因だったようです。この最古参の兄弟子は勝川春好でした。また、師匠の勝川春章に隠れて、狩野融川に出入りして狩野派の画法を学んだためともいわれています。 寛政7年(1795年)には「北斎宗理」の号を名乗りました。ところが、寛政10年(1795年)には、「宗理」の雅号を門人である琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」という雅号や「可侯」「辰政」の雅号を使っていました。そして文化2年(1805年)、ついに「葛飾北斎」の雅号を使うようになりました。文化7年(1810年)には、「戴斗」の号を用いています。 文化11年(1814年)、「北斎漫画」の初編が発刊されました。 文政3年(1820年)、「画狂老人」「卍」の号を使い「富獄百景」を手がけます。嘉永2年(1849年)4月18日、江戸浅草聖天町にある遍照院境内の仮宅で亡くなりました。享年90歳でした。 次のような辞世の句を残しています。「人魂で 行く気散じや 夏野原」北斎の墓所は台東区元浅草の誓教寺にあります。 |
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北斎漫画について | |
葛飾北斎が絵手本として発行したスケッチ画集が「北斎漫画」です。絵手本というのは画学生のための絵の教本で、全15編で構成されて4000図が収められています。北斎54歳、雅号は「戴斗」の頃でした。 絵手本として発刊された「北斎漫画」は、やがて評判となり職人の意匠手引き書などにも用いられるようになりました。さまざまな職人から道具師やふざけた表情、あるいは妖怪、さらには遠近法など、多岐にわたる図が収められています。 北斎は、この絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」と呼び、やがてこの北斎漫画は海外でも評価されるようになりました。1830年代ヨーロッパに、磁気や陶器の輸出の際に、緩衝剤として浮世絵と共に渡ったのです。そして、それを見たフランスの印象派の画家クロード・モネやゴッホ、ゴーギャンたちに影響を与えました。 |
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映画「北斎漫画」のあらすじ | |
監督/新藤兼人 鉄蔵(葛飾北斎)/緒形拳 左七(曲亭馬琴)/西田敏行 お栄(鉄蔵の娘)/田中裕子 お直/樋口可南子 お百(左七の女房)/乙羽信子 中島伊勢/フランキー堺 鉄蔵と鉄蔵の娘お栄は、左七の家の居候になっていました。鉄蔵は貧しい百姓の生まれだったが、幼い頃に御用鏡磨師・中島伊勢の養子となっていました。幼い頃から絵が上手だったので絵師の弟子となったのですが、一箇所に落ち着かず、幾人もの師から破門されました。 一方、左七は侍の生まれでしたが、読本作家になることを志し下駄屋の養子に入り込んでいました。左七の女房お百は、亭主が黄表紙本などを読むのを心よく思っていません。さらに、朝から晩まで絵を描いている居候の鉄蔵とお百の父娘にも我慢なりませんでした。 そんなある日、鉄蔵はお直という女に出会いました。鉄蔵は一目でお直にのめり込んでいきました。そして、彼女を描くことで、つき当っている壁を破ろうとしたのです。 ところが、お直の不思議な魔性に手応えがありません。鉄蔵は、お直を養父の伊勢に紹介することで彼女と別れ、また金もせびることにしました。しかし、その伊勢もお直の魔性にとり憑かれ、首をくくって死んでしまいます。 |
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「北斎」という雅号 | |
「北斎」という雅号は、どうやら日蓮宗の妙見(北斗七星)信仰からきているようです。北斎は、日蓮宗を信仰していたのでしょうか。妙見、つまり北斗七星は「北辰」と呼ばれています。 坂本龍馬が免許皆伝の「北辰一刀流」という剣の流派がありますが、その北辰も同じように北斗七星のことです。ちなみに、北斎は、当初「北斎辰政」と名乗っていたようです。 |
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画号がなんと20i以上 | |
「北斎」という雅号は、どうやら日蓮宗の妙見(北斗七星)信仰からきているようです。北斎は、日蓮宗を信仰していたのでしょうか。妙見、つまり北斗七星は「北辰」と呼ばれています。 坂本龍馬が免許皆伝の「北辰一刀流」という剣の流派がありますが、その北辰も同じように北斗七星のことです。ちなみに、北斎は、当初「北斎辰政」と名乗っていたようです。 |
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北斎は引越魔だった | |
様々な理由があったようで、北斎は生涯で92回も引越をしています。90歳で亡くなっているから、年に1度は引っ越していたことになります。とくに、晩年近くになってから引越の回数が増えたようです。 雅号を頻繁に変えることもそうですが、どうやら北斎はひとつ処に留まることが嫌いだったのではないでしょうか。流れる水の如く、常に新鮮な何かを求めながら絵に没頭していたのでしょう。 |
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葛飾北斎と滝沢馬琴 | |
滝沢馬琴は「南総里見八犬伝」の著者として有名です。北斎は、その滝沢馬琴の家に居候していたことがあります。しかし、同居していたくらいだから仲が良かったのかというと、決してそうではなかったようです。しょっちゅう喧嘩していたようですね。 滝沢馬琴は、自著の「三七全伝南柯夢」ます。「三七全伝南柯夢」は、実際の心中事件を脚色した浄瑠璃「女舞剣紅風」「艶姿女舞衣」などの「三勝半七」ものを忠孝・貞の物語に仕立てたものです。その書物の中で、馬琴が書いた話に関係なく北斎が狐の絵を描くので、これじゃあ狐に化かされているみたいだと怒ったという話が載っています。 また馬琴が草履を口にくわえた姿を描いてくれと言うと、そんなに汚ねえ絵が描けるか、だったらてめえでくわえてみやがれ、と北斎が怒った話などが載っています。 そんな2人ですが、相手のいないところではお互いの才能を褒め合っていたようです。 |
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北斎の子孫 | |
北斎は2度結婚しています。まず先妻との間にできた長女お美与は弟子の柳川重信と結婚し、一男をもうけたが、後に離婚しています。長男は富之助といい、北斎の代わりに北斎が養子となった先の中島伊勢の家督を継ぎました。 ところが、早くに亡くなったようです。次女のお辰は、北斎の血を引いて画才があったようですが、早くに嫁ぎ病死しています。 また、再婚相手との間にできた3女のお栄は、結婚して離婚しています。このお栄は、北斎が亡くなるまで北斎と一緒に絵を描いていた人です。次男の崎十郎は、武士の養子となり御家人になりました。4女のお猶は生まれつき盲目だったらしく、尼寺に引き取られ体調を崩してからは母親と一緒に暮らしていたようです。 北斎の画才は、どうやら娘にだけ引き継がれていたようです。 3女のお栄は絵師と結婚したが、実は夫より絵が上手かったようで、それが原因で離婚したのではないかともいわれています。また、お栄は「北斎」の雅号を継ぎ、父北斎の代筆まで手掛けていたようです。そのお栄は、北斎が亡くなって6年後に、長野で頼まれた絵があると言い残し、その後の消息を絶っています。 |
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北斎が現代に与えた影響とは | |
漫画制作プロダクション経営 遺された圧倒的は作品の量から推測して、北斎は数人いたのではないかと思われます。彼の娘も北斎として父の仕事を手伝っていましたし、おそらく他にも複数いたのでしょう。つまり葛飾北斎が経営するプロダクションで漫画を制作し、プロダクション作品の作者がすべて「葛飾北斎」だったということです。 現代の漫画制作プロダクションも、某有名漫画家先生が著者となっていてもその実態は複数のアシスタントが手伝って描いた合作漫画なのです。たとえば、「作品名風の惑星バトル」「著者日本男子」という表紙があったら、「風の惑星バトル」は漫画家「日本男子」先生が単独で描いたのではなく、「日本男子プロダクション」の方たちの総合制作なのです。 北斎は現代の漫画制作プロダクションの先駆者だったのです。 版画によって漫画家商売 プロダクションを経営するにはたくさんの漫画を制作する必要があります。しかし、肉筆で大量に描くことは困難です。そこで彼は版画を使って漫画の大量印刷を行ました。それが彼のアイデアかどうかはわかりませんが、おそらく版元との協議があったものと考えられます。もしかすると商売熱心な版元が北斎に版画出版の話を持ち掛けたのかもしれません。版元というのは現代の出版社のことです。 いずれにしても、版画で漫画を大量に刷って売ることでプロダクション経営が行われました。漫画を商売にした功績は非常に大きいと思います。漫画制作で商売できる人が漫画家ですから、葛飾北斎は立派なプロの漫画家だったというわけです。 豊かな表現力と圧倒的は画力 表現豊かな北斎漫画は、今見てもとても面白いものです。現代の漫画となんら変わることがりません。鳥羽僧正の鳥獣戯画もそうですが、日本人は昔から表現力が達者だったのでしょう。一部の人間だけがそうだったにせよ、焼き物や書画、工芸品を見てもとても表現力豊かな民族のように思います。同じ日本人として誇りです。 しかし、北斎は漫画だけではないのです。「神奈川沖の富士」や「赤富士」などの一枚絵の圧倒的な迫力はスゴイです。 複数いるであろう葛飾北斎は、江戸時代の総合的な漫画制作プロダクションの先駆者として、また天才絵師集団として後の世まで光を放ち続けることでしょう。 |
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参考ページ→ 漫画とアニメについて 日本漫画の歴史 |
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