| HOME> 漫画制作で使われる用語の説明>か行>河鍋暁斎 |
![]() |
| 漫画を制作し印刷するまで、業界で使われる専門用語の知識は必須です。打ち合わせの段階から完成まで、専門用語は頻繁に使われます。そうした用語を詳しく解説いたします。 ぜひお役立て下さい。 |
| 河鍋暁斎 |
| 項目 |
| 1.河鍋暁斎とは 2.暁斎誕生 3.歌川国芳に師事 4.鯉の写生 5.代表作 |
| ●河鍋暁斎とは 河鍋暁斎は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。妖怪漫画のような怖い浮世絵を描くことで有名でした。反骨精神旺盛で、明治3年には筆禍事件で捕縛されています。たくさんの戯画や風刺画を描き、私的には「鳥獣戯画」の作者鳥羽僧正と並んで、暁斎はパロディ漫画の先駆者だと思っています。 彼は狩野派の流れを受けながら、他の画法も貪欲に研究して自身の作品に反映させていました。そして、自らを「画鬼」と称したのです。 項目に戻る ●暁斎誕生 1831(天保2)年、下総国古河石町で河鍋記右衛門の次男として生まれました。暁斎の父は古河の米穀商の次男で、古河藩士河鍋喜太夫信正の養嗣子でした。母は浜田藩松平家の藩士の娘で「きよ」といいました。天保3年に江戸に出ました。暁斎の幼名は周三郎といい、河鍋氏を継ぎました。 項目に戻る ●歌川国芳に師事 天保8年、暁斎は浮世絵師歌川国芳に入門し、画壇へと足を向けました。天保10年には、梅雨時に神田川で拾った生首を写生し、周囲を大変驚かせたそうです。この頃、すでに妖怪漫画のような浮世絵の素養があったのでしょうか。 ところで、暁斎の師歌川国芳には妙な素行がありました。天保11年、国芳に感化されることを心配した暁斎の父は、国芳の元を辞し、暁斎を狩野派の前村洞和に再入門させました。洞和は暁斎の画才をとても愛しだそうです。 項目に戻る ●鯉の写生 前村洞和が亡くなると、暁斎は洞和の師である狩野派当主洞白に預けられました。その頃、暁斎は塾生たちと川で3尺近い大きな鯉を生け捕りました。暁斎はすぐに画塾に戻り、鯉を忠実に写生しました。 写生を終えると仲間たちは言いました。「鯉を食べようじゃないか」 すると暁斎は、 「この鯉は、私に写生させてくれたからには、私にとって師である。師であるからには礼を尽くして天寿を全うさせてやりたい」 と強く抗議したのでした。 しかし、兄弟子たちは暁斎の話に聞く耳を持たず、料理を始めようとしました。すると突然鯉が激しく飛び上がったそうです。結局、暁斎の意見が通り、鯉を近くの池に放してやりました。そんな逸話が残っています。 項目に戻る ●代表作 代表作には、武者絵「月百姿」、妖怪絵「惺々狂斎画帖」、風刺画「阿武山人狂画百面相」などがあります。 項目に戻る |
| 参考ページ→ 脚注 鳥羽僧正 浮世絵 河鍋暁斎 十返舎一九 岡本一平 江の島鎌倉長短旅行 北沢楽天 安藤広重 狩野派 歌川国芳 タンクタンクロー 山東京伝 菱川師宣 黄表紙 蔦屋重三郎 琳派 |
| あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 |
![]() takataka1123@office.nethome.ne.jp |