| HOME> 漫画制作で使われる用語の説明>は行>英一蝶 |
![]() |
| 漫画を制作し印刷するまで、業界で使われる専門用語の知識は必須です。打ち合わせの段階から完成まで、専門用語は頻繁に使われます。そうした用語を詳しく解説いたします。 ぜひお役立て下さい。 |
| 英一蝶 |
| 項目 |
| 1.英一蝶とは 2.英一蝶の画才 3.芸人としての英一蝶 4.三宅島に流罪 5.島での一蝶 6.一蝶江戸に戻る 7.一蝶死す |
| ●英一蝶とは 英一蝶は江戸時代の元禄の頃、絵師や芸人として活躍しました。1724(承応元)年、多賀伯庵の子として京都で生まれ、晩年になって名を「英一蝶」、画号を「北窓翁」と改めました。 一蝶の父は伊勢亀山藩の侍医でした。亀山藩お抱えの医師として仕えていましたが、江戸詰めが決まったことを機に多賀家は一家で江戸に転居しました。 項目に戻る ●英一蝶の画才 元来絵の才能が高かった一蝶は亀山藩主に認められ、狩野派の宗家中橋狩野家当主狩野安信に入門しました。ところが、理由は定かではありませんが破門されてしまったのです。 一蝶は非常に多才でした。その後、「多賀朝湖」の画号で狩野派風の絵を描いて有名になり、「暁雲」と号で俳諧にも関わっていました。そうした縁から松尾芭蕉らとの親交もありました。 また書道でも名を成し、江戸中で有名になりました。江戸町民だけでなく、旗本や諸大名まで親交の輪が広まっていきました。 項目に戻る ●芸人としての英一蝶 一蝶は風俗画としての浮世絵もたくさん描きました。吉原の遊郭に通って大いに楽しんだようです。また、吉原の客としてだけではなく、自らが幇間として豪商や大大名たちを楽しませていました。芸人としての才もあったようです。 項目に戻る ●三宅島に流罪 1693(元禄6)年、罪状は不明ですが一蝶は牢屋に監禁されました。まもなく釈放されましたが、1698(元禄11)年に再び捕縛されました。今度は生類憐みの令に抵触した罪でした。一蝶は三宅島に配流となりました。 幕府は過度な華やかさを禁じていました。生類憐みの令発布には武士や大名の綱紀粛正という目的もありました。 項目に戻る ●島での一蝶 三宅島に配流されると、一蝶は江戸の風俗画を描き続けました。いつも江戸の方角に机を向けて描いたことから、「北窓翁」の画号が生まれたといわれています。 良質な画材ではありませんが、一蝶は江戸を偲びながら描いていたようです。この時期に描かれた作品を「島一蝶」と呼ばれています。 一蝶は絵を売って三宅島に家を持ちました。流人で家持ちは珍しかったようです。一蝶は商売も営み、流人でありながらゆとりのある生活を送っていました。しかも、島の名主の娘との間に子も授かったのです。 項目に戻る ●一蝶江戸に戻る 1709(宝永6)年に5代将軍徳川綱吉が逝去しました。徳川家宣が次期将軍になると英一蝶は大赦によって赦免され、12年ぶりに江戸に帰ることになりました。 江戸に戻ると深川の宜雲寺に住まいながら風俗画の大作を描くようになりました。このころから、一蝶は「英一蝶」を画号としたようです。そして、紀伊國屋文左衛門らと交友するようになりました。 項目に戻る ●一蝶死す 1724(享保9)年、英一蝶は逝去しました。享年73歳でした。 流罪となった三宅島で生まれた子を江戸に連れ帰り、絵を学ばせました。子供の名は長八信勝といいました。後に「2代目英一蝶」を名乗りましたが、一蝶と不和となりその後の所在は不明です。 また、一蝶は次男百松信祐にも絵を教えました。次男は「英一蜩」を画号としていました。やがて久留米藩に仕えたようです。 項目に戻る |
| 参考ページ→ 浮世絵 十返舎一九 河鍋暁斎 岡本一平 安藤広重 北沢楽天 江の島鎌倉長短旅行 鳥羽僧正 菱川師宣 山東京伝 黄表紙 蔦屋重三郎 狩野派 見返り美人図 曲亭馬琴 朋誠堂喜三二 平賀源内 たらしこみ 喜多川歌麿 東洲斎写楽 琳派 英一蝶 恋川春町 葛飾北斎 |
| あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 |
![]() takataka1123@office.nethome.ne.jp |