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| 漫画を制作し印刷するまで、業界で使われる専門用語の知識は必須です。打ち合わせの段階から完成まで、専門用語は頻繁に使われます。そうした用語を詳しく解説いたします。 ぜひお役立て下さい。 |
| 喜多川歌麿 |
| 項目 |
| 1.喜多川歌麿とは 2.歌麿登壇 3.蔦屋重三郎との関わり 4.大首絵 5.蔦屋を離れて |
| ●喜多川歌麿とは 喜多川歌麿は江戸時代に活躍した浮世絵師です。本姓は「北川」といい、幼名を「市太郎」、名を「信美」といいました。出生地は不明ですが、河越説と江戸市中説があります。他にも、京や大坂説があります。 項目に戻る ●歌麿登壇 歌麿は狩野派門人で御用絵師でもあった鳥山石燕のもとで絵を学びました。1770(明和7)年、絵入歳旦帳に挿絵を描いたのが初作品であると思われます。そして、1783(天明3)年に「青楼仁和嘉女芸者部」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」を描き、この作品に初めて「歌麿」名義が記されました。 項目に戻る ●蔦屋重三郎との関わり そして、1786(天明6)年からは、版元蔦屋重三郎の元で、狂歌に花鳥図を合わせた狂歌絵本を出版しています。この頃の「画本虫撰」や「汐干のつと」、「百千鳥狂歌合」などは大変優れた作品として評価されています。 これまで歌麿の描く美人画は全身画でしたが、蔦屋重三郎との関わりの中で表現方法が変わってきました。歌麿が大首絵を採用したのです。 項目に戻る ●大首絵 大首絵というのは、歌舞伎役者や遊女などの半身や胸像を描く技法でした。歌舞伎役者の表情や遊女の美しさをアップで描き、読者の鑑賞欲に応えるために生まれた表現方法でした。 歌麿は、この大首絵の背景を省略して白雲母を散りばめたのです。描かれた役者や美人たちの表情に繊細な表現を加味しました。さらに、被写体の仕種や着衣や髪型などを工夫したのです。また、これまでの浮世絵とは異なり、役者や美人の喜怒哀楽を詳細に表現したのです。これから、歌麿の美人大首絵は江戸で大人気となりました。 さらに、蔦屋重三郎との関わりの中で、「無線摺」「朱線」「ごま摺り」などの彫摺法を用いて、肌や衣裳の質感を表現しました。 項目に戻る ●蔦屋を離れて 歌麿の人気は上がり、他の版元からも多くの制作依頼がありました。それを契機に、蔦屋の美人画とは異なる、身近で官能的な写実画にシフトしたのです。そして、吉原最下層となる女性たちの内面美を描き、官能的に全身像も描きました。美人画を描きながらも、生々しい生活の醜さも加味して人間を描いたのです。 歌麿が題材にしたのは遊女や花魁、茶屋の娘などでした。そして、歌麿が描くことで、モデルとなった女性たちの名は江戸中に広まっていきました。ところが、幕府は「評判娘の名を錦絵に記してはならない」という禁令を発したのです。1793(寛政5)年のことでした。 この幕府の禁令に対して歌麿は抵抗しました。女性たちの名前を判じ絵にしたのです。しかし、幕府はこの判じ絵も禁じてしまいました。 喜多川歌麿は、1806(文化3年)に逝去しました。 項目に戻る |
| 参考ページ→ 鳥羽僧正 浮世絵 河鍋暁斎 十返舎一九 岡本一平 江の島鎌倉長短旅行 北沢楽天 安藤広重 狩野派 歌川国芳 タンクタンクロー 山東京伝 菱川師宣 黄表紙 蔦屋重三郎 琳派 曲亭馬琴 たらしこみ 喜多川歌麿 平賀源内 朋誠堂喜三二 |
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