本文へスキップ

漫画制作事務所が日本漫画の歴史についてご紹介します。

戦前戦後の日本漫画
HOME日本漫画の歴史> 日本漫画の歴史04「貸本漫画」02
穏やかな画風が主流だった戦前の漫画だが、時代は軍国主義色が強まり、次第に軍の広告的な役割を果たすことになる。

漫画家の本意ではないにしろ、少年漫画までもが軍に利用されてしまった。

漫画にとっては暗い時代だったといえるだろう。

※この記事は、とんぼスタジオ代表高橋が20年前に漫画制作事務所を立ち上げたころに書いた記事です。ほぼそのままの内容で掲載してあります。
4貸本漫画
●東京の漫画家たち
一方、東京にも、大阪の劇画とは違うが、毛色の異なる画風で勝負している漫画家たちがいた。

赤塚不二夫やちばてつや、滝田ゆうなどだ。いずれも貧しい生活を強いられていた。

当時の年収が4万円程度だったという。「月収」ではなく「年収」である。

そんな先人たちがいたおかげで、私たち漫画家の今日があるわけで、先人たちは皆神様のような存在なのである。

それなのに、私は神様のことを呼び捨てにして、あろうことか批評までしている。

なんと罪深い奴でしょう。

緒先輩方、どうかお許しください。

●貸本悪書追放運動
昭和34年には、「貸本悪書追放運動」が展開された。

佐藤まさあきの「殺し屋は俺だ」などは、青少年に対して麻薬への興味を抱かせるという理由から、なんと店頭から追放されてしまった。

今読んでみても、そんなバカな、と思わざるを得ない。

もっとすごいことがあった。

平田弘史の「血だるま剣法」などは、部落解放同盟から抗議を受けて焼却処分となった。

残念なことだが、私自身はこの「血だるま剣法」は読んでいないので詳細がわからない。

ただ、事実はそうだったらしい。

●月刊誌から週刊誌へ
同年、「週刊少年マガジン」と「週刊少年サンデー」が創刊され、子ども漫画が月刊誌から週刊誌の時代へと移行していく。

漫画が大きく発展していく過渡期であった。

やがて、貸本漫画で産声を上げた劇画が子ども漫画に登場するようになる。

劇画は戦後漫画のカンフル剤のようなもので、以後、従来の漫画と相乗的に発展進歩していくことになる。

)(
参考ページ→
日本漫画の歴史
北斎漫画について
漫画の描き方講座
HOME
漫画のご相談
takataka1123@office.nethome.ne.jp
※お見積りは無料です